旧町名も志多町。二重鉾、四つ車、囃子台は欄間仕立て(勾欄仕立て)で 、廻り舞台。原型は江戸時代末期の作と伝えられている。昭和29年に一重鉾を二重鉾、廻り舞台に宮元町の棟梁大沢菊太郎が改造。さらに磯貝勝之により彫刻の仕上げがなされる。
人形は安政3年(1856)鼠屋五兵衛の作で合計3人立ち。安宅の関にさしかかった武蔵坊弁慶が2人の草刈童子に道を尋ねている姿。
囃子は堤崎流の府川囃子連。