知って楽しい川越まつり 用語集

山車

神が天降りする際の目標(標山)→移動神座を現す。 町内の象徴であり、川越まつりを特徴づけ盛り上げる祭礼用具。 御神木や神山、あるいは鉾と同じで天空と直結。構造的には屋根をもたない。 川越の山車は江戸型(上下エレベーター可動式)が発展した代表例→江戸系川越型。江戸の天下祭りの影響を受けた似たような山車、屋台は関東周辺だけでも約300台が現存する。明治初期、東京に残った山車の多くは周辺都市へ売り払われた。川越の場合は、江戸・東京の山車と同時期に同じ作者へ発注、新調しているのが一つの特徴。 そして、明治期の後半から祭礼運営と曳行時の演出と機能性、安定感と装飾性を高めるために、さらに絢爛豪華なものへと発展させている。 山車は当て字で、本来は「出し」と表現していた。神が降りてくる木や柱(神柱、御柱)に竹で編んだものをつける。それを髭籠(ひげご)と呼び、竹の端がピンとはみ出している。これを語源とする説もある。屋台は、もともと屋根付芸能舞台。芸ごとを表現する場、装置。

人形

山車の主題は、最上部に神を祭る形(移動神座)を具体的に現した人形。江戸型山車の特徴である人形の性格について、千代田区教育委員会のまとめによれば次の4点になるという。

  1. 民俗、土俗信仰や伝説にちなんだもの。
  2. 主に古事記や日本書紀に登場する神々や英雄。
  3. 中国の英雄、豪傑を模したもの。
  4. その町の職能に関連したもの。

川越では、さらに王朝式楽の舞楽(雅楽)や武家式楽の能楽に取材したものや、郷土ゆかりの武将、徳川幕府と川越藩にちなんだ人物など多彩に発展させている。

会所

神をお迎えする祭り宿。文字どおり神と人、人と人が会うハレの場所をいう。本来は出来上がった会所の祭壇前で祭礼支度に実を整えた町衆は、天降りした神とともに一夜を過ごし夜が明けるのを待った。これがお日待ち=祭りの語源。 一般的には、花(祝儀)の受付けや他町山車への応待をはじめ、祭礼行事全般にわたって指揮をとる執行本部となる。祭礼関係者の休息所を兼ねることが多い。 入口に青竹囲いの前庭(山飾り)を作る。木や草花で飾りたて、石灯籠、つくばいなど据えて風流を演出する。これは神が降臨する標山を意味するという。 山車の出る表祭り、山車を出さない陰祭りにかかわらず、祭礼のたびに設けるのが慣わし。神酒所と呼ぶこともある。

祭礼組織

町内によって祭礼に対する考えかた、取り組みかたなどに若干の差がある。一般的には次のような構成となる。

  1. 世話役(祭礼委員長)…自治会正副会長や氏子総代など。
  2. 総頭取(実行委員長)…祭礼組織代表。
  3. 賭方(総務、会計)…祭礼全般の企画、立案から会計までの運営管理。
  4. 諸方(会所)…年行事をはじめ長老を主に構成。
  5. 建方(設営)…山車の切り組み、解体、収納、会所、山車小屋の仮設…職方の手伝い。
  6. 曳方(山車運行)…宰領(正、副)、先触れ、露払い(金棒)、網先、曳子保安、見送り警護など。

囃子

享保年間(1716~1735)の初期、江戸葛西(現在の葛飾区金町あたり)の鎮守であった香取明神の神官が考案した5人編成による和歌(馬鹿)囃子がルーツ。後に天下祭に呼ばれ囃子をつとめ人気を呼ぶ。やがて神田、深川、佃、本所、目黒、府中、井草などへ分流し、各地特有の考案を加えて囃子連が組織された。東都の流行、風流を新河岸舟運と川越街道を経由しリアルタイムで受け入れていた川越へは、神田や井草方面の江戸囃子が伝えられる。以前からあった地元の里神楽と合流し古囃子として大成する。もともと地域交流と活性化を意識して始めた祭礼では、囃子は近郊の農村部が担当していた。 明治初期ごろより独自の改良を重ねて新囃子となり継承されてきた。現在、川越まつり囃子の流儀は、王蔵流、芝金杉流、堤崎流を基本としながらも、時の流れの中で多彩な広がりをみせている。

わたり(先触れ)

無断で他町へ山車を曳き入れない伝統の祭礼作法。他町へ入る時には、まず町境で山車を止める。先触れ役の若い衆が2人で訪れる町の会所へ「わたり」をつけに走る。 「わたり」口上には決まりはないが、一般的には次のようになる。 先触れ「おめでとうございます。○○町でございます。ご町内へ渡らせていただきます。通行の許可をよろしくお願いします」 会所「ご苦労さまでございます。早速のご挨拶をありがとうございます。それではご案内申し上げます。」 「わたり」を受けた町の会所では、案内役が金棒をついて出迎え、案内するのが決まり。案内された山車は、会所の前で停止し舞台正面を向けて一囃子行う。 「わたり」は2回目以降の訪問では省略しても構わない申し合わせとなっている。

木遣り(きやり)

木遣りとは本来は労働歌。平安時代に京都の建仁寺で行った地固め、材木や石材を運搬する時に歌われたかけ声が起源。栄西が始めたので「エイサイ、ヨウサイ」という合いの手(側)があるとか。 岩や切り株を移動するために使われた梃子棒が、いつしか手軽で短い手古棒(真棒)となり、これで調子を整えながら木遣りが歌われるようになった。 川越まつりで鳶頭が歌うのは江戸木遣り。その全盛期は江戸末期から明治、大正の頃で、神社仏閣の上棟落慶式や町屋の棟上げ、あるいは祭礼の山車を曳く時などに歌われた。 山車の曳き出しは「真鶴」の一声から。つづいて「手古」、「鶴掛け」あるいは「棒車」となり、「さらば」の声で拍子木を打つのが決まり。町内(頭)にもよるが納めのときには「土佐」を歌う。

曳っかわせ

文化11年(1814)の記録によれば「祭礼中に屋台が出会った時には、囃子を行うこと」を申し合わせている。これが川越まつり一番の見どころとなった曳っかわせの起源。まだ当時は踊り屋台が祭礼の主役であったが、その後に登場した山車と江戸で爆発的に人気となった祭り囃子が伝えられて融合し、川越独自の祭礼文化として定着、発展することとなった。 もともと町どうしの挨拶で祭礼の場でもあったものが、明治後期に山車の囃子台が360度水平回転するにいたり、祭礼を盛り上げる絶好の演出の場となった。さらに他町への対抗意識も手伝って、山車と囃子の勝負の場といわれるようになった。 山車を移動神座ととらえ、町の象徴である人形(御神像)が対面する神あわせの場とする説は、祭礼=儀礼文化の根源として説得力をもっている。川越まつりの山車行事が都市型祭礼として貴重な民俗文化財として位置づけられた昭和40年後期ごろから盛んにいわれるようになった。

手古舞(てこまい)

江戸で男まさりの気質が身上の辰巳(深川)芸者衆が、男装をして祭礼に参加したのがはじまり。だから髪は男髷の大いちょう。華美に飾らないのが本来の姿。 現在では適用しないことだが、かつては女性の表面的な祭礼参加は制約されていた。川越でも同様で、できても山車ではなく踊り屋台への参加であった。明治、大正期の川越まつりでは、大店の男児も手古舞姿で山車の先頭を練り歩いたという。

衣装

祭礼の期間、町衆は各町内ごとの揃いの着物を身につける。それは神を迎え、神と人との出会いの晴れの装束である。他町と区別するだけでなく、より美しく華やかに見せる工夫が各町のお揃いの衣装を生んだという。長襦袢や股引き、足袋までも揃える町内もある。襟もとには町名入りの手拭いをかけ、手には昼間は祭り扇子、夜は提灯をもつ。これらのものはすべて自前である。 袢纏(半天)は職人衆のもので、町衆が着ることは原則としてない。

手締め

祭礼の最終幕では、納めの木遣り、終い(仕舞)囃子とつづき、最後に町内関係者が揃って手締めをする。祭礼が無事に納まったことを祝い、町内繁栄を祈念して手を打つ伝統の川越締めは、ゆっくりとした調子で格調たかく3・3・1の七つ締め。 江戸の手締めは早いリズムで3・3・3・1と手を打つ十締め=一本締めが一般的。これを3回くりかえすのが三本締め。ちなみに大きく手を一回だけ打つのは一つ締め。 商人町の川越では十締めは戸を閉めることに通じるとして嫌われたという。 昨今、にぎやかに三本締めをした後、さらに3回手を打つ三十三締めが若者の間で流行の様子。これは通称、木場締めと呼ばれるもので、本来の川越締めとは無縁のもの。

知っておくとさらに楽しい

寛永15(1638)年、川越大火の後に城主 松平伊豆守信綱は、城下を整備して十ヶ町四門前の制度を定めました。十ヶ町は江戸町、本町、南町、喜多町、高沢町の上五ヶ町と、上松江町、多賀町、鍛冶町、志義町、志多町の下五ヶ町で構成されています。上と下は札の辻の南北の区分ではなく、上が商人町、下が職人町として作られました。養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺の門前が門前町にされ、「四門前」と呼ばれました。 札の辻は大手門から西に200m、町割りの中心であり、高札が立てられていました。

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